もし戦争に敗れていたら

もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった
――カーチス・ルメイ

東京、ドレスデン、老若男女、民間人が何十万人焼死しようが勝てば関係ないのであります。勲章も貰えるのです。
この論理に従うのなら、任務を忠実に果たしたアイヒマンが裁かれたのは彼の陣営が敗北したからにほかならないのでしょう。まさに力こそパワー、勝者こそウィナーであり、毎日がエブリデイですね。
訳が分かりませんね。私も分かりません。

こうやって日記を書く事の利点の一つとして、自分の脳みその残念具合の具体的な状況の確認、即ちもっと勉強すべきであるという事を実感できるという点があります。人を見る時、相手が黙っていれば、その所作や眼光や口元からその知性を推し量るしかありませんが、話したり、書いたりすれば語彙や知識や理解力や注意力、表現力が忽ち露わになる訳で。私の様に恥ずかしげもなく世に公開するのはおくとして、記録に残すのは自省するに極めて便利な手法です。

先日、ニュースを見てたら茶をブハーッって噴きそうに……。
日本の外交政策についてチャウダリー氏に尋ねるってのも、なかなか捻りが利いた野心的な試みですね。
よりにもよってそこなの、という。取材対象の性質とか思想的傾向が片方に振り切れている様な。
敢えて、そういう傾向の人に日本の政策がどう見えるか、という事を端的に報じる為に選んだのかもしれませんけど。
ならばテロップのイスラム指導者って記述も物凄くまずい誤解を生むのでは。確かガチガチのジハーディストでしたよね。
何を言うかなんて聞く前から分かり切っているでしょうに。公共放送の中の人も面白い事をする……。
色んな人の意見を聞こうって奴でしょうか。興味深いといえばそうだけれど。調査不足が否めないのでは。

捕虜を残忍な方法で処刑したり、世界中に公開したり、世は大騒ぎの様で。
動画やニュースを流す事はプロパガンダに協力する事になるそうですけど、そもそも世に発信される報道に宣伝的意図が皆無の、何の意図もない情報というのはそう沢山あるものなのでしょうか。渡り鳥がどこそこの池にやってきましたよ、とか季節の風物詩を伝えるそういう奴?

超大国とそのお仲間も空爆やら作戦の巻き添えで、膨大な数の無関係の人々を無惨な死に追いやってきた訳ですが(国際機関の集計値を確認するまでもなく)日常的に発生していた(いる)筈の損害は滅多に報じられないし、年度ごとの統計が広く全世界に周知される事も無い。問題は人数の多寡ではないのかもしれませんけど。結局どちらも作為と不作為を器用に弄び情報と印象を操作しているという事実においては変わらないのでは。
片や惨たらしい死を売りにし、一方はスマートに拭われた死を振舞う、盛り付けの違いはあるかもしれませんけど。
同じ素材でも、確かに綺麗に盛り付けられた料理は美味そうに見えますしね。ろくでもない連中がもっとろくでもない連中と取っ組み合いの大騒ぎ、私の印象はそんな感じでしょうか。

おそらく、闘争の絶えた時代など生物の誕生以来無いのでしょう。そして人類が言葉や仕草といったメッセージを手にした瞬間から思想戦やら宣伝戦といった行為は今に到るまで絶える事無く繰り返されてきたのでしょう。情報の取捨選択基準はどの陣営に都合が良いかで判断され、理性ではなく心情や恐怖に訴える様に発信される。どこもかしこも悉く胡散臭い。さらに胡散臭いのは国会や官邸の前で大騒ぎする人々であり、もっと胡乱なのはそれを眺めて無責任に論じる私なのでありますが。どこを見てもろくでなしばかり。極楽がこの世にある様に、地獄もまたこの世に顕現するのでしょう。

ニネヴェ……また遺跡ぶっ壊したのか……ぶっ壊してないのか、どっちなのか。
やはり全世界はローマの名の下に統治されるべきだと痛感しますね(既定事項)。
ラインとドナウから何個軍団か引き抜いて、東方駐留軍団に合流させねばならぬ。
文明人ではない者に慈悲は無い、ハイクを詠め、であります。
平穏と秩序を乱す者は滅ぶであろう、かつて都市の名が地図から抹消されたように、徹底的に。
順調に2世紀脳ですね。

あるいはアッシュールナツィルパル2世が颯爽と蘇って、本物の残虐さという奴を教えてやりますよ的な展開がですね……。そして陛下の残虐メモリーに新たな一行が加わり、アッシリアの名の下に東方は平穏を取り戻すのだ。
のだ。のだ(残響音含む)。
嗚呼もったいない。破壊し、殺傷するのは一瞬だけれど、建設し、育て、洗脳教化教育するのは大変だというのに。

そういう不毛な暗い話は置くとして、艦これのアニメに叢雲はいつ登場するのですか(援軍を待つ包囲下の指揮官が如き切実な形相で)。予定(希望的観測及び要望)ではそろそろ1話丸ごと叢雲が出ずっぱりの回がある筈なのですが、おかしいなぁ。アルドノア・ゼロはユキ姉と韻子の動向をひたすら追うという楽しみ方をしております。話の筋は酩酊脳からは既に揮発しているので分かりません。そしてLegionariusは考えるのをやめた……元より考える力などなかったのだという悲しい事実に気づく事すらなく、彼は太陽系の外へと旅立ったのだ……。

この頃、葉巻が美味いのです。悪の枢軸いや善き同志たる某氏に唆されて悪い遊びをまた一つ覚えてしまったわけですが。すぐに人のせいにするのです。近所に葉巻屋を発見し、モンテクリストの4番やパルタガス、ホヨー・ド・モントレーあたりを週末の夕暮れに一本だけ吸っています。目に沁みる様な暮れ行く日、赤と紫のグラデーションに染まる雲を眺め、チリチリと燃え行く香ばしい葉の味たるや……。
神よ、この甘美なる一息を吸い終える、その至福の瞬間にこそ我が生を奪い去り給え!

茶や酒を飲みつつ葉巻を燻らせ、図鑑の頁を捲り、我が脳内の宮殿(崩壊しつつあり)に篭り、コレクションを増やす。
目を瞑れば、草原に吹き渡る風を身に受けて丘に立ち、遠くの町の鐘楼の微かな鐘の音に耳を澄ます事も出来るし、荒々しい掛け声や雄雄しい舟歌と共に波飛沫を浴びて身を刺すほど冷たい海に船を押し出し、冒険と略奪の旅に出るヴァイキング達の姿を思い浮かべることも出来る。

もうそれで良いのではないか……何と騒々しく忙しない世の中なのでしょう。皆もっと静かに暮らそうとは思わないのか。
ウィスキーで喉を焼き、さらに葉巻をやるなど食道やら膵臓やらの癌まっしぐらな気もするけれど、仮にそれを避け、長命を得たところでなんだというのでしょう。

セオドア・カジンスキーの看破した産業社会の備品(彼の論文“産業社会とその未来”のほとんどは私には理解不能であり、その行動は不毛極まりないと思うけれど)として体よく使われて磨り減り、耐用年数を全うして死に至る事を寿げ、とでも言うのであろうか。理想や哲学や自由の欠如した隷従の末に長命をありがたく拝受して、胃ろうとスパゲティ症候群の果てに、排泄もままならず、絶え果てるのは万人に喜ばしいことなのだろうか。

万物の霊長であるなどと傲慢にも宣するのなら、生を盲目的かつ無条件に崇め奉るだけなく、死をも支配すべきではないか。すなわち、ソイレントグリーンのホームの様にその手法と選択権と時機の決定権を各人とその尊厳に委ねるべきではないのか。誕生に選択権はないのだから、快適な死に多少の選択の自由があっても良いものだろう。

と、常々思うのですが、日本でそれをやると嬉し恥ずかし同調圧力で別にそのつもりもない人まで名物の“空気”で強要されそうで制度が人道的に破綻しそうですね。国家財政も逼迫してますしね。世知辛いですね。

何とも落ち着きなく話題がぴょんぴょんしてますね。
何かそういう傾向の病気なのでしょうか。
仮にそうだとして誰も害は被らぬし、何でも良かろう。


・冥福という言葉から適当に話を膨らませて支離滅裂に走る

人が死ぬと皆口々にご冥福をと言うけれど、語句の意味が気になる事が多々あるのです。
流石に他意の無い事は承知しているのですが、どうにも些末な事が気になるのです。
冥土の幸福という意味で用いられているのなら、霊魂やあの世の存在を前提としてるということなのか。

当事者の思想的背景や意向は勘案されないのか。例えば現世主義や唯物論的な傾向の人の冥福を祈るのは本人の意向に適うのか。限りある生を全力で生き、死を境に完全に無に帰す事を望む者がいたとして、冥土における幸福を祈る事はその者の思想に適合するのか。現代人の死生観はもっと乾いているものかと思っていましたが、著名人の訃報や事件の度に交わされる言葉を見るに結構そうでもないのですね。

あるいは特段の思想的背景もなく、そう言っている、気遣いをしている自分というポーズを周囲に披露し、認識・承認してもらう為の作法なのか、はたまた抑え難き情動に突き動かされ、血涙滂沱の末に心底からの弔意を示しているのか、思考を介さぬ反射的な行動なのか……。

そういう穿ったものの見方をしていると、世のありとあらゆる人間の行動が芝居じみて見えてくるので、ほどほどにしないとノイローゼになってしまいそうですね。
何でも良い、随意にしてくれたまへ、くらいの距離感が良いのでしょうか。人のする事など気にするなと。

そして実に子供じみた思案なのですが、仮に死後の世界なるものがあるとするならば、そこはどういう所なのか。
もしそこが天国であれ地獄であれ、あるいはその2項に類さぬどのような所であれ、現世のように人間が集い、同様に社会を築いているならば、死んだ社会不適合者にとって、そこはまさに永遠に終わることのなき地獄なのではないか。

20年か30年か40年か50年か、はたまた80年か知らないけれど、ようやく死に到り、世のしがらみから完全に解放される段に到り、狭苦しい肉体の電源が落ち、再び目が覚めてみれば、また社会に参加している……。それは、とてつもなく恐ろしいことではないのか。

してみるに世の少なからぬ宗教は極楽やら地獄やらと、あの世の概念を強く提示し、時にそれを以って脅迫する割に、どれもこれもその具体性を欠いているのはどうしたことか。美女が待っているだの、酒が溢れているだの、確かに重畳だけれどそれが永遠に続くのは結構ダルいのではないか。快楽も酩酊も終わりがあるから惜しむのであり、楽しいのではないのか。

善き人と会って喜び、不可避の別れを惜しみ悲しむのは無慈悲にも優しき完全な終わりがいずれ訪れる事を皆が知るからではないのか。永続するものは、いずれ耐え難き苦痛と化すのではないのか。
映画のトロイでアキレスが言うように“神々は人間に嫉妬している”のではないか。即ち、有限であることの尊さと美に。

彼の地の特徴については、ある程度おぼろげながら説明されているけれど、具体的にどういうところなのか。記憶は保持されるのか、査証はいるのか、入国管理官がジロジロと睨みつけてくるのか、賄賂は効くのか、税金は払わないといけないのか。面倒くさい書類を記入して提出しなければならないのか。字が汚いとか、写真のサイズが数ミリ規格に合っていないだとかで突き返されたりしないのか。印紙は貼らないといけないのか。

そして何より、選択権はあるのか。死後もまた“存在”すること、外界と自我を認識し、状況に対応するという作業に従事する事をきっぱり拒否し、無に帰す事を選ぶことは出来るのか。

殺生はならぬ、淫蕩はならぬ、真実を語り、清貧を旨とせよ、などと入国の条件を事細かに指定しておきながら、肝心の現地について詳細な情報が足らぬとはどうした事か。何という片手落ちか!

諸君、これは許されざる怠惰ではないのか!余は一設定厨として甚だ遺憾に思う。
どうしてそこで止めるんだ、何故諦めるのか、もっと頑張れよ、詳細希望と(修造風に可能な限り暑苦しく)。

そこでは空腹を感じるのか、ものを食べるのか、排泄するのか、酩酊のプロセスはあるのか。睡眠は。
どの様な言葉を話すのか。永遠の時間を前に技術とその進展はどう扱われるのか。
人々は肉体を持つのか、はたまた何か別の姿をしているのか。
憤怒や憎悪の感情は抱きうるのか。どういう世界に住むのか、惑星状の様態をしているのか。
永遠に増え続ける入居者をどう収容するのか、膨張する宇宙の様に果てしなく拡充していくのか。

無限の時間をどの様に過ごすのか。常人の精神がその様な状況に耐えられるものなのか。
耐えられぬなら、そこは発狂者の園と化すのではないか。
耐えられるなら、住人らはどのようにして精神の均衡を保っているのか。
それは現世の人間と同一と言えるのか。全く別個の存在と化すのか。

どこまでも人間の認識の限界や、未知なるものを既知とする矛盾に満ちた意図が透けて見えるのである。
何にせよ設定が甘いのではないか。猛省を促したい所存である!
せめてGTAⅤの街くらいの作り込みは欲しい所である!
予算が足りなかったとでも言うのか。斯様な言い逃れを無慈悲な余は許さぬ


確かに、若くして子を亡くした親御がせめて冥土で幸福に、と願うのは無理もないとは思うのです。
艱難辛苦の末、結局日の目を見る事無く苦痛に包まれて死んだ友の冥土での慰みを望んだ事もありました。
けれど、腹を抱え笑い、それなりに楽しみもあった末の死ならもう良いではないか、と思わぬでもない。

後期ローマの様に世が乱れ、明日の食い扶持や安全すら保証されぬ世界となれば、唯一の強力な神と慈悲を人々が求めるようになるのは必然なのでしょう。力強き神々、傍若無人で気ままな神々、美と快楽を象徴する神々、そういうものは荒れた世界に苦しむ寄る辺なき人々が縋る対象とはなりえないのかもしれません。

部族や都市の間で争いが絶えず、男達は若くして死に、寡婦や孤児が貧しさに苦しみ、貧富の差が拡大する、そういう社会に唯一の神を崇め、言行を正し、理想的な社会の建設と拡大を目標とする彼の宗教の様なものが流行るのはまさに必然なのでしょう。苦しい世を清く正しく耐えれば、神仏と合一する、極楽が待っている、と説けば多少の慰みにはなるだろうし、社会秩序を維持するには実に便利なのでしょう。

少なくとも食べるに困らぬ社会から順に宗教的拘束が薄れ、解体されていくのはまさにその証左なのでは。
即ち平和、衣食住など最低限の目標が解決されると、その必要性が失われていくからそうなるのでは。一方で産業社会が極まることによって、道標を見失い、揺ぎ無き信仰(指針)を求める傾向へと回帰するという現象もあるのだろうけれど。

私は終わりは終わりであって欲しいし、誰もが潜る門たる死そのものは必ずしも忌むべきものでもなく、必ずしも悲しむべきものでもないと思うのです。故に、そこに至るプロセスの苦痛を忌避する事と終着“点”を混同し、無思慮に恐れる事もどうかと思うのです。

ただ、歴史上の面白おかしい人物達があの世に犇いていて、ちょっと話が聞けるのなら、なかなか楽しそうですけど。
でも、その所業を見るに偉人や英雄の類は皆誰も彼も総じて地獄にいるのではないか、という気がするのです。

私がこの様な繰言、戯言を弄ぶことができるのは、少なくとも食べ物があり、雨露凌ぎ、明日死ぬかもしれぬという
戦禍に見舞われている訳でもないからなのでしょう。一度そういう災禍に巻き込まれたなら、人間の性根など容易く転向するのでは。雪が降るまで雪掻きのスコップが忘れ去られ、倉庫で埃を被っている様に。

宗教は蛍のようなもので、光るためには暗闇を必要とする
――ショーペンハウアー


そんな感じか。

仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し

遮那は中央に坐す、遮那は阿誰の号ぞ、本是我が心王なり
――空海

もし私が存在していなかったらば、「神」も存在しなかったであろう。
神が「神」である原因は私なのである。もし私が無かったら、神は「神」でなかったであろう。
――エックハルト


同じ事を示唆しているのでしょうか?エックハルトのそれは明らかに当時の教会の見解に抵触しているでしょうから、
そのギリギリ感というか、明らかにアウトじゃねーか、という所が実に痺れます。現代人からすれば理に適っている様に思うのだけれど、それはつまり当時の人の世界観や主流の観念との埋め難い決定的な違いが、まさにそこにあるという訳で、凄くゾクゾクするのです。脳みそに電撃が走る様な。ひょっこりと宇宙人に出会って、互いの違いを確かめ合う様な。

これはおそらく現代にも言える事でしょう。即ち我々が常識や本質と思い込んでいるもの、法則や社会通念の類はいずれ転覆する可能性を秘めているのであり、今まさに同時代人に狂人や非常識と蔑まれる者が唱えている事がいつか真理として取り上げられる可能性があると。

全ての時代の“現代人”はときに自分たちが歴史の最後に生きていると錯覚しますが、無論それは一面ではそうではあるのでしょうが、人類が存続する限り、全ての人間はいずれ過去の歴史に折り畳まれていく訳で。数百年を経れば、21世紀の人間は何だってこんな迷信や思想に憑りつかれていたのだろう、などと学者や一般人に勝手に分析される時が来るのでしょう。

しかし、ショーペンハウアーは仏陀とエックハルトが同じ事を説いていると述べたそうだけれど。
突き詰めていくと皆いつか同じ場所に到るということなのか。いや、同じ場所とは何なのか。
疑問は尽きない。


・しょうもない自己分析を、あたかも偉大な思想の系譜に連なる何かであるかのように誇大妄想するマッポーめいた遊びによって、クソの様な結論へと接続する遊び

辛うじて引っ掛かってはいるけれど、自分が社会に馴染む事無く、また得体の知れぬ疲弊に包まれているのは明らかに“意味”や“価値”を喪失しつつあるからなのでしょう。

子供の頃は訳も分からず、淡々と年長者の指示通りに様々な事をこなし、ほとんど疑問を抱く事は無かったけれど。年を重ねるにつれ中途半端な知識と経験、小賢しさを身に付け、疑わしいもの、非合理的で無益なものが見え始め、やがて多くのものから“意味”を見出せなくなっていくのです。かつて自分を導いてくれた“指揮官達”がそれなりに適当で無責任で、思考停止していたのではないかという疑念がちらつき始めるにつれ、他者への全幅の信頼というものも損なわれていく。

金科玉条として敬うよう求められたものも、次第にその欠缺が明らかになっていく。あるいは賢明な人はその逆にあらゆるものに意味を見出し、人を信頼し、法則を見つけて愛でる事が出来るのかもしれませんけれど。

馬鹿馬鹿しい社交や挨拶だけでなく、典礼と化した芝居の様な人々の営みの意味が悉く解体され、無意味に帰していく。
ときに愉快・痛快ではあるけれど、問題はそうした意味や価値の多くを喪失・解体した状態で人々や社会と付き合うのは極めて危険であるという点です。自分が何一つ重視していないものであっても、それを崇め、有難がる素振りを見せなければ、人を無用に傷つけるだろうし、いずれは排除される、共同体の構成員である以上は完全に自由である事はまず不可能なのだから、どこかで譲歩・妥協せざるを得ない。

おそらく歴史においては19世紀前半から20世紀前半にかけて発生した哲学や思想上の問題を、今更になって個人的になぞっているに過ぎないのでしょう。神や信仰への疑念が唱えられ、国家や民族、血統や地域の伝統、政治体制や経済、家族制度、人間や生命そのもの、ありとあらゆるものの価値が揺らぎ、聖域は白けた日の光の下に晒され、盲目的に追従していればよかった対象やモデルが失われていく。あらゆるものが絶対性を失い、相対的な存在となり、ほどなくして何を重んじればいいのか、何をすればいいのかわからなくなる。皮肉にも人間に与えられた思考や先見という能力・特質そのものがその主である人間から道標を奪い去っていく。

かつてあるべきとされた“道”や“本質”、天から与えられた“価値”や“使命”なるもの、道徳や常識の類は各自の思い込みであり、あるいはたまたま居合わせた同時代の社会や構造が教唆・推奨した幻影に過ぎず、状況や条件、時代が変転すれば空模様の様に容易く色を変えるものである事が明らかとなり、人生や人間存在は本質的に無意味、いや本質なるものがそもそも無いという事が発見される。そこへ前世紀に実存主義や構造主義が立ち現れたのでしょうけれど。

実存は本質に先立つ

人間の運命は、人間の手中にある

人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである

ひとは各々の道を創り出さなくてはいけない。

君は自由だ。選びたまえ、つまり作りたまえ。

すべての答えは出ている。どう生きるかということを除いて。
――ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル

人間は状況によってつくられる。


というのもあるけれど、これは構造主義的か。


そうした状況下で生きていくにはまっさらな、あるいは空虚に近い状態から、あたかも注釈の無い百科事典の挿絵に自分で説明書きをする様に、自身であらゆるものに意味や価値を見出していく(同時に何が自分にとって無意味か)ほかなく、
その様な状態においてなお自然と身の内から欲するものには幾らかの価値を見出せるという事なのでしょう、少なくとも自分には。

本を読み、酒を飲み、時折出かけ景色と色彩を愛で、傑出した絵画や音楽や映画を求める。脳裏に浮かんだ光景を文や絵として刻む。それ以外の行為のほとんど全てが自分には煩わしい。一方で生活する為には社会参加しなければならない。何故煩わしいのか。

自分にとって組織や集団を通じた社会参加というものは完全に手段であって、目的ではないのでしょう。
究極的に突き詰めていけば、腹が減るからであり、暖かい寝床が欲しいのであり、飢えや寒さの苦痛を回避する為という所に集約するのです。必要だから仕方なく関与せざるを得ない……そこに消極的意思しかないから煩雑であるとしか思えないのでしょう。時勢への参加や一体感の獲得、貢献や奉仕の精神、社会的体面の維持、名誉欲、出世に対する強い欲求も欠けているのだから。多少の報酬の増減を理由に過大な責任を負ったり、ただの手段に多量の時間を投じるのは本末転倒なのです。

当然ながら、そうした態度に発する活動に積極的意思が生まれる筈も無く、全ては自身の能力の労働市場における価値と、単位時間に獲得される対価や、衣食住の必要という原始的な天秤が左右する事になるのでしょう。
しかし多くの組織や共同体はそこに目的を見出すことや、人生の大幅な投入を求めるのです。ただの手段ではなく、目的とするよう要求する。ときとしてそれは先鋭化し、労働者に“ありがとう”を糧として生きろ、そこに目的を見出せなどという教条的な“意味”を強いる。その辺りに埋め難い認識の差があるのでしょう。

明らかに虚偽、虚像である事を重々承知しながら、表面上は喜んでそれを演じる。
そんな事を延々と続けていれば、いずれ乖離は致命的なものとなり、発狂するのではないかと。
優秀な演者は事も無くやり遂げ、それを主体的に楽しみすらするのでしょうけれど。
あるいは、それが善き人間、または普通の人間足り得る最低条件なのか。

つまり、一言で表現するならば“働きたくないでござる”

En attendant Godot
待つだけではゴドーは永遠に訪れはしないでしょうけれど。

労働なくしては、人生はことごとく腐ってしまう。だが、魂なき労働は、人生を窒息死させてしまう
――カミュ



・お絵かき

ヒャッハー!蛮族共を薙ぎ倒せ、立ち塞がる者共は皆殺しにしろ!
奴らの首を槍の穂に突き刺し、憐れな捕虜は地平線の果てまで数珠つなぎにして薄汚い奴隷商に売り払え!
ローマに弓引く愚かな振る舞いをじっくり悔いるが良い。

 ローマ軍の物語13
 戦争は残酷で悲しいので良くないと思います。大体そんな感じで。

前回の絵を描いてから、ほとんど何も考えずにいつものローマ軍の話の続きを描いているのですが、社会情勢からしてこの内容はどうなのだろうか、と思うところがないでもない。自分の中に僅かながら“常識、良識的?”なものの考え方が残っていたということか。とはいえ去年の1月からそうするつもりだったので既定通り進めます。世の趨勢など知らぬ!
ローマ人たるもの知の光なき卑しき者共の蛮行に膝を屈することなど、あろう筈もないのである。

本当は倒した敵の首を誇らしげに掲げる戦士にしようか迷ってましたけど。そうすると閲覧制限を掛けないといけないので
ローマとローマ軍について広く紹介するという本旨と衝突するのですよね……。首をぶら下げて、なおかつ上官に新たな捕虜の処遇を確認するローマの補助軍歩兵ってのも戦場の現実を端的に表現できて良さそうなのですが。ローマ軍団兵諸君にとっては見慣れたいつもの光景でしかないでしょうし。古代の戦場ならきっとありふれた光景だったのではないかと。捕虜を取り扱う法律だとか条約はなかったですし。

日本でも戦乱の世において首は重要な要素でしたし、世界的に特殊な行為ではなさそうです。戦時に敵の遺体を損壊して飾ったり、持ち帰るというのは20世紀になっても見られる現象で、太平洋戦争やベトナム戦争においても発生したと記憶しております。日本兵の頭蓋骨を持ってったり、ベトナム人の耳を集めたり。

戦功・戦果確認と脅迫の手段とでは意味合いが大きく違うのでしょうけれど、21世紀になっても似た様な事をしているというのはいかがなものかと。人間はもう少し進歩しても良いと思うのですが、あまり期待しないほうが良いのか。
生物としてのハードウェア(肉体や脳みそ)が淘汰のプロセスを経て大きく進化・変化するには何千・何万年かかかるのでしょうから、短期的にはソフトウェア(知識・教育・文化)がその遅々とした変化を上回る速度で人間を変えていくのだろうと思うのです。ただ、その共有や理解が不十分だと結局筐体は同じなので、何千年も昔の人の様な振る舞いをする事になるのでしょう。PS4買ったけど最新のソフトは無いよ、みたいな。

となれば無闇に衝突し、原始的だったり、残忍に見える行動に及ぶのはある種の必然なのではないかと。
ありのままの~って奴ですかね。獣と人を辛うじて隔てる道徳や理性や社会規範や慈悲の薄皮の脆く儚いことよ。


しかし、明らかに関心事が偏ってますね。キーワードを機械的に集計したらカウンセラー呼ばれそうですけど、別にそういう意図は無いのです。ただ疑問を分析し、つまらぬものを排除し、面白おかしくやりたいだけなのです。


今回はこの辺で。
ローマと軍団に無敵のマルスと全能なるユピテルの助力あれ!
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軍団兵履歴

Legionarius

Author:Legionarius
主に世界史・戦史(東西問わず)の絵を描いております。

形式:Legionarius
状態:製造年月日から30年以上経過
使用燃料:Laphroaig,Bowmore,
Ballantine(12年が好ましいが財布が薄いのでfinest)
エンジン形式:惰性型酒冷4ストロークバルブ108気筒
始動形式:諦念あるいは深い溜息
搭乗機:CBR600RR07白→CBR1000RR2012に機種転換(乗り手に過ぎる良い機体ですがハイオクは財政が……)

音楽:(Bill Evans, Miles Davis, Dvořák, Linkin Park, Rammstein, Killswitch Engage, Enigma外)気に入れば何でも。

書物:ノンフィクション、歴史(ローマ史、古代ギリシャ,WW2外)、SF(ホーガン、ハインライン外)、最近はOsprey社の本ばかり。主にマクブライド先生のやつばかり。

漫画:(大陸軍は世界最強とかアララララーイとか)雑食。

ゲーム:ROME TOTAL WAR、MEDIEVAL TOTAL WAR
     CALL OF DUTY、S.T.A.L.K.E.R、SILENT HUNTER外

好きな陛下:Marcus Aurelius Antoninus、Flavius Claudius Julianus
好きな甲冑:ロリカ・セグメンタータ
好きなヴァンツァー:フロスト
好きなマクナブ:受領通知!!、カチカチ、カチカチ、続刊はいつですか。
以下、好きなギボン、サトクリフ、パウルカレル、スティーブンハンター、フォーサイス、ルカレ、エルロイなどと八万行に渡って続くので割愛。

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